肉、魚を禁止していた教団とわが家の事情
教団では殺生を禁止すると言う基本的な教えがあります。
そのため殺すことでしか得られない肉、魚を摂ることは控えるようにと言われていました。
教団のイベントなどで出される食事には、肉や魚は使われておらず、野菜を出汁も塩も入れずに煮た煮物などが頻繁に登場していました。
母も教団の教えを熱心に守っていましたが、我が家の食事は肉、魚を禁止をしていませんでした。
給食なども他の子が食べるのと同じように肉、魚の入ったメニューです。
信者の中には肉や魚が入った給食を子どもに食べさせないために、お弁当持参している家族もいましたが、母は私たちの食べ物にそこまで気を配る余裕はありませんでした。肉や魚を食べなかった際にタンパク源となる大豆ミールを教団から購入していたこともありましたが、私たちと母自身もあまり好きではなかったのと、当時あまり一般的ではなかった大豆ミールが割高だったこともあり、長くは続きませんでした。
教団ではよく大豆ミールの唐揚げがセミナーの食事として出ていました。
教団では“畜産動物の一生“と言うビデオを見せられたことがあります。生きていた動物たちが殺され、解体されて肉になっていくシーンがバッチリ映っているものです。
小学生には流石にキツく、しばらくはお肉いらないと言う気持ちになりました。
「いつも美味しいって食べているお肉はこうやって作られているんだよ。」と言われ、肉を食べることに罪悪感を植え付けられていました。
食事を美味しく食べることは悪いことだとする教団の教え
教団では、食事は美味しく楽しく食べるものではないと教えられていました。
食事に楽しみを求めることは悪いことだとされていたのです。
教団内で印象的だった話が、「昔のセミナーで野菜を炊いたスープが2つの鍋に入って置いてあった。みんな自由におかわりしていたが、片方の鍋だけみんながおいしいおいしいと食べていた。実はその鍋は、ネズミが紛れて入り込んでいたため、死骸が動物性の出汁として出ていておいしかっただけであった。」という話でした。
おいしいものを求めた結果、ネズミの死骸入りのスープを飲まされてしまったという話だったのですが、しばらく教団のものを警戒して食べるのが嫌だったのは間違いありませんでした。
教団での食事の考え方は、“自分が食べる為ではなく、教祖のことを思いながら教祖に捧げるため、自分が窓口になって食べるためのものだ“、と言う少し難しい考え方でした。食事の前にも手を合わせて呪文を唱え、数分間黙祷する時間があります。
母はそれを祖父母の家や外食中にも行うので、いつもヒヤヒヤしていました。
基本的に教団のセミナーでは1日一食で、内容もとても質素なものです。
さらにあまり食べるのは良くないと、いつも量が少なかったのを覚えています。
一度だけ、週末イベントで“食の苦しみを知る“と言うテーマの下食事が出され、無茶苦茶量が多い時がありました。
いくらお腹が減っていて食べる時喜んでも、食べ続けるとそれは苦しみになると言うことを知るため…という趣旨だったと思います。
小学生にはかなりきつい量の食事を、周りから頑張れと言われながら数時間かけて食べました。
捨てることが許されなかった食事
教団の教えでは他にも、食べ物を捨てたり残したりすることは悪いことだ、というものがありました。
そのため、私たちは母が作ったご飯が不味くても量が多すぎても全部食べなくてはいけませんでした。
残して捨てるなんて許されない行為です。
さらに、なぜか母の中で残して次の日に食べる、という選択肢がなかったため、私が苦手な料理を母が大量に作ったときは本当に苦しかったのを覚えています。
謎の透明なお餅(おそらく溶けきっていない片栗粉)が入った卵と野菜だけの大量の天津飯を吐き気と戦いながら食べきった記憶は忘れません。未だに天津飯、苦手です。