下校後、毎日たくさんの友達が来ていたわが家
私たちの団地は学区の端っこにあり、近くに学童などがありませんでした。
その為、帰宅後家に親がいない子がほとんどで、みんなで集まって、年齢や性別関係なく遊ぶことも多かったです。母の不在時に子どもだけでわが家で遊ぶのも、よくあることでした。
家の中はいつもぐちゃぐちゃでとても汚かったですが、基本的に母は家に友達を呼ぶことを禁止してはいませんでした。
普通、子ども同士外で遊ぶことには無関心でも、自分のいない時間に知らない子どもに家の中に入られるのは嫌という親が大半でしょう。
私たちの団地でもそれは同じだった様で、親から禁止されていないわが家は子どもの溜まり場になっていました。
生活を守るために信仰を周りに隠していた母
元々教団は嘘をつくことを教えの中で禁止しています。
教団への信仰を隠さず、他人に批判されても信仰を続けることが褒め称えられていました。
しかしその頃の教団は社会的に叩かれていて、連日ニュースにもでている状態だったので、ほとんどの人が信仰を隠していたと思います。
たまに隠さなかった人の話を聞くこともありましたが、仕事を解雇されたり、親から勘当されたり、離婚になったり…多方面で影響がでていました。
母は金銭的にギリギリの生活を続けていたので、特に仕事面でバレることは避けたかった様です。
わが家の信仰は親戚には以前の事件↓でバレていましたが、それ以上周りにバレない様に隠す方向性になっていました。

部屋に散らかる宗教関連グッズ。友達が来るまで数分間の格闘
しかし母は、自分の周りの人間に自分からバラすことはしないだけで、自分の知人が来ない家では教団の気配を隠すことはしません。
絶対に教団のことを友達に知られたくなかった私たちは、常に見つからないように必死でした。
友達が来る前には教祖の写真は伏せ、部屋のあちこちに散らばっている本は隠す。
教祖の説法テープは24時間流しっぱなしだったのでそれを止める。
さらに教団ではTシャツやタオルなどのグッズが売られており、母もそれを愛用していました。
今ならばアジアン雑貨と誤魔化せそうな物もありますが、当時の私たちはそんな事も分からず…。洗濯物やちょっとした雑貨にも目を光らせ、必死に片付けます。
友達は一緒に下校し、一度家にランドセルを置きに帰った後すぐさまやって来ます。
隠す物が多い上時間もないので隠しきれていない事も多々ありました。
その場合は見つけ次第、友達に隠しているところを見られないように姉妹で連携して隠していました。
厄介だった本棚の上の祭壇
わが家の高い本棚の上には自作の祭壇とお布施箱、さらに教祖とその息子の写真、そして写真にお供えしていた水と少量のご飯が置いてあります。
普段の子どもの目線からは見えない場所でしたが、私たちはよく、3段に仕切られた押入れの1番上の段まで入って隠れんぼをしていました。
押入れからは祭壇がよく見えます。
見えてしまうと友達も不思議に思うらしく、「これ誰?」「あれ何?」の質問祭りです。
教祖の写真は「親戚の人」「お供え物」と答えていましたが、親戚の写真を本棚の上に飾っている事は子どもでも変だと思うのか、しつこく聞かれたりもしました。
その度に慌てて言い訳をするのがとても嫌な時間でした。
当時の世間的で教祖の顔がどの位の認知度だったのか私たちには分かりませんが(教団ではニュースで捻じ曲がった情報が入る、と特に教団関連のニュースを見ることを禁止されていました)、教祖の写真を見た友達は薄々親戚のおじさんなんかじゃないと気づいていたのでしょう。
答えを確認したかったのか、嘘を指摘したかったのかは分かりませんが、仲の良かった子でも見る度に聞いてきました。
友達がいてもお構いなし!とにかくマイペースな母
たまの母の休みにも、構わず遊びにくる友達。
母から文句を言われた記憶はありませんが、子ども達のために自分のやりたい事を諦めることもしません。
みんなで遊んでいると大きな声で教団の本を読み出したり、教祖の説法のテープを流したり…。
「おばちゃんどうしたの!?」と驚かれ、咄嗟に「お祈りしてる!」と誤魔化して、その後の話題を変えようと必死でした。
結局私たちが耐えられなくなって、友達を外に連れ出すこともありました。
今思い返しても、母が友達にフレンドリーに話しかけたり、お茶やお菓子を出すことはなかったです。
「わが家は放任主義なので。」という言葉の元、親からはほとんど構ってもらえなかった小学生時代。
教団の存在に薄々気がつきながらも仲良くしてくれていた当時の友達達には今も感謝でいっぱいです。