子どもの頃のわが家のお金事情〜信仰の傍ら育ち!母と教団とその他な私たち〜

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収入以上に貧乏だったわが家のお金事情

私たちの父は、自営業として飲食店を経営していました。
母と出会った頃は比較的利益がでていた店も、飲酒運転の取締りが厳しくなるにつれてどんどん経営が悪化。
しかし父は店も畳まず、利益を出す方法も考えず…グダグダと現状維持の経営を続けていたため赤字だけが膨らんでいく状態でした。それとともに父が家庭に入れるお金もどんどんと減り、私たちが小学生になる頃には家に全くお金を入れなくなりました。
居酒屋だったので昼頃から仕込みをして夕方から夜中まで営業。営業中にお客さんに勧められるままお酒を飲み、そのまま店で寝る。ほとんど家には帰ってきませんでした。

母は父を何度も教団に勧誘しましたが、父は頑なに教団に入るのを拒否。家の中で父だけ入信していない状態でした。

家族の為?教団の為?母子家庭として援助も受けず、毎日必死で働いていた母

教団を巡って父と母の喧嘩は絶えませんでした。
しかし、なぜかお互い離婚しなかったので、家にお金を入れずに毎日帰ってこない父とも戸籍上は夫婦のままでした。
そのため事実上は低収入の片親でも、書類上は母子家庭ではないので行政からの補助や手当ては全くありません。

母は朝から晩まで仕事を掛け持ちしながら働いて、ほとんど休みもありませんでした。
時給は低くてもそれだけの時間働いているので、毎月ある程度(手取りは月額20万〜30万くらいだったと思います)の給料は貰っていました。
しかしわが家は、教団へのお布施により世帯収入以上に貧乏でした。

意外とかかる教団関連の費用。母は限界までお布施していた。

教団では毎月月会費がかかるのはもちろんのこと、年末年始、GW、お盆と長期休暇に必ず行われる集中セミナーは毎回参加費用が一人数万円単位で必要です。
他にも一人数十万円払って受ける特別な教材がもらえるセミナーも何種類かあり、私たちも姉妹で1つずつ、母は2つ受けていました。

さらに毎週参加する週末イベントや勉強会など、毎回一人数百円から数千円の参加費がかかります。
その他に教団のグッズや食品類(粉で溶かすタイプのジュースや手作りクッキーなど)、説法のテープや書籍なども有料です。
教団施設に泊まったり施設のものを使用する際も、使わせてもらうことによって徳が減るので代わりにお布施をする、ということになっていました。

厄介だったのが、教団ではお布施の金額よりも、貧乏でも自分の限界までお布施をすることでよりたくさんの徳を積むことができるとされていたことでした。
忠実に教えを守っていた母は、毎月お金を余らせて蓄えることはせず、いつも教団への限界のお布施として使い切っていました。
貯金をしなくてもお布施をして徳を積めば、将来にも困らないという発想です。
教団施設へ行くと、毎回財布に残っている小銭を全てお布施箱に入れていました。

貯金とは無縁な上に借金まで…。信仰のための貧乏

母には消費者金融で作った借金もありました。
セミナー代に充てたものだったと思います。
当時の教団ではセミナー代のために借金をする人たちもおり、その人たちに教わって母は消費者金融から数十万円単位の借金をしていました。
「浄水器を買うため」と言えば審査に通りやすくなるよ、と母が教わっていたのを覚えています。

毎月ある程度の収入があってもそこから借金を返し、家賃や光熱費、食費など必要最低限の生活費、私たちの学校にかかるお金…それらを合わせれば残るお金はわずかです。
さらには教団で教わっている限界までのお布施により、わが家は貯金とは無縁の生活がずっと続いていました。

限界までお布施をするつもりがなくても、長期休暇のセミナーや週末のイベントに参加しようと思うと、わが家では自ずとお金が足りなくなってきます。
母は信仰の為、家族の生活費をギリギリまで削り、食費や服飾費、レジャー費にはほとんどお金をかけない生活を送ってきました。

削られる生活費。生活のあらゆる面で貧乏だった。

食費に使えるお金も少ないため、よく食卓に出てくるのはすいとん汁でした。
小麦粉と水を混ぜた昔ながらのすいとん。そこに鶏胸肉が少量入り、あり合わせの野菜と少量の出汁の素、お醤油を入れたものでした。
外食など、宗教活動でどうしても必要な時以外は滅多にしません。
遅くまで教団施設にいた週末の夜、お腹が減り妹としつこく母にねだって、コンビニのおにぎりを買ってもらいました。妹と二人で一つです。
そのツナマヨおにぎりを、妹と半分こして大切に食べ、ビニールに残った海苔のかけらを必死にとって口にしていたのを覚えています。
なんでこんなにコンビニのおにぎりって美味しいの!?と感動したのを覚えています。
未だに記憶に残っている程、母にコンビニのおにぎりを買ってもらうのは珍しいことでした。

シャンプーやトリートメントなどの日用品も最低限しか買ってもらえなかったため、いつも我が家にはトリートメントはありませんでした。
シャンプーだけで洗うので髪の毛がギシギシになり、祖母が連れて行ってくれる美容院でいつも絡まった髪の毛を解かれるのが苦痛で仕方なかったです。子どもの頃はそんな痛い思いをする美容院が大嫌いでした。
シャンプーもストックなど置いていないので、母のお財布事情ではすぐに買ってもらえないことも多々ありました。
その為少なくなるとボトルに水を足して薄めて使います。
薄めた冷たいシャンプーを頭にかけて必死に泡だてていましたが、水で薄めたものがさらに水で薄められていたこともあったりと、ほとんど役割を果たしていなかったです。

また私たちが中学生になると2人とも生理が始まっていたので、生理ナプキン代が高いと母が困っていたことも覚えています。
貴重だったので交換する頻度も少なかったです。

物心ついたときにはクリスマスプレゼントはなく、誕生日プレゼントはいつも服や靴下と言う実用的なものでした。
ピアニカや絵の具、書道セット、裁縫箱などの学用品も、学校から案内が来る一括購入のものは割高で買えないと、いつも誰かのお古や近くのスーパーで売っているワンランク質を下げた安物で済ましていました。

当時は子どもの医療無償化もされていなかったので、お金のないわが家では病院にはほとんど連れて行ってもらえませんでした。
私たちは小学生の頃から視力が悪く、学校の視力検査では毎回引っかかっています。
お金のかかるメガネやコンタクトを買う、という選択肢を考えたことがなかったので、何とか裸眼で過ごしていましたが、黒板の字が見えなかったりすれ違う友達の顔が見えなかったりと、かなり不便な思いをしていました。

見兼ねた祖母が中学校卒業まで数ヶ月に1回眼科には連れて行ってくれていましたが、当たり前のように病院へ行くことはできませんでした。
ニキビが酷く、一度自腹で皮膚科に行った事がありましたが、値段の高さに一度で断念しました。
歯科検診で引っかかったこともあり、母が予約をとってくれた歯医者に妹と二人で自転車で行った事があります。歯科衛生士さんからは子どもなのにこんなに歯石が…と、驚ろかれてしまいました。

母は自営の配送業をメインに仕事を転々としていたので、国民健康保険の期間が殆どでした。
自分と私たち姉妹と3人分の保険料が払えず無保険だった期間もありました。
流石に貧乏家庭が無保険なのはリスクが高いと感じたのか、分割払いにしてもらって何とか保険証だけは維持しようと母が頑張っていた記憶があります。
私たち姉妹も母も、昔から大きな病気や怪我なく過ごせたことは救いでした。

人とは違ったわが家の貧乏。子どもの為には時間もお金も使いたくなかった母

わが家の貧乏は他の家族の貧乏とは少し違いました。
母は、“子どもの為に何かをする“という意識が全くない人でした。
世の中には貧乏でも工夫をして子どもに不自由はさせないように頑張っている人達や、貧乏でも子どもと過ごす時間を大事にしたい、と考えている人達だっています。
母は自分のやりたい宗教活動に時間もお金も使うことに必死で、私たちの世話は必要最低限でした。

母との毎日の生活では子どもとしての楽しみは全くありませんでしたが、そんな私たちに時間とお金をかけてくれたのは母方の祖母でした。
祖母のお陰で私たちはなんとか人並みの生活を送ることができ、普通の子どもとしての楽しい思い出を作ることができました。
そんな祖母の話もいつかブログに書いていきたいと思います。

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