出家したい母と再起させたい祖母、母と離れたくない姉妹〜信仰の傍ら育ち!母と教団とその他な私たち〜 

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母と離れることになるととにかく脅され続けた子供時代

世間からの教団バッシングが強くなるにつれ、私たち姉妹は母とこのままずっと一緒にいられない、ということを周りから聞かされる様になりました。私たちが幼稚園〜小学校低学年の頃です。
その頃母は教団に出家するという道を目指し、母方の祖父母は母と教団の縁を切らせ、私たち親子3人を再帰させることを望んでいました。

しかし、母と祖父母、どちらが望んだ未来でも私たちは母と一緒にいられなくなる。
“自分達はこれからどうなるんだろう?“小学校低学年のうちは、母と離れることになるかもしれない、という将来への不安がずっと心の中にありました。

母が望んでいた出家…私たちと一緒にいる未来はなかった

母の望み通りに出家をした場合、教団施設では子どもだけが集められ、親とは離されて子ども同士で集団生活を送ることになっていました。学校生活に近いものだと聞いていましたが、親に会うことはほとんどないと教団関係者が言っていた記憶があります。

その頃は毎日仕事、家事、宗教活動と忙しかった母に放置されることも多く、私たちが唯一甘えられるのは寝る前の僅かな時間でした。毎晩姉妹で母にくっついて眠っていたのを覚えています。
毎日の些細な習慣でしたが、私たちとってはとても大切な時間でした。
出家後は二度と母にくっついて寝ることができなくなる…日中離れて集団生活を送ることにそこまで不安はありませんでしたが、寝る時間に離れることには強い抵抗がありました。

母ももちろん、出家したら私たちと離れることになるのは知っていたでしょうが、その点での不安や寂しさを口に出したことはありませんでした。
親に執着するよりも教祖に執着しなさい、という教団の考え方を汲んでいたのかもしれません。

また、出家した際はその後の“連れ戻し“にも恐怖心を抱いていました。
この頃は教団に家族が連れ去られたと残された家族が訴えることも多く、“被害者家族の会”も発足していました。
残された家族の働きかけで出家後に支援団体や警察などが介入し、教団施設から無理矢理連れ出されて、家族の元に戻されることもあったそうです。
これは教団側からの情報だったと記憶していますが、泣き暴れながら警察に抱き抱えられて、教団施設から無理矢理連れ出される子どもの映像を見たことがあります。
警察に連れていかれるのが怖い、顔が写っている映像がニュースに流れたら友達に見られちゃう…そんな程度の恐怖でしたが、自分達より年上の子どもが警察に抱えられて本気で抵抗して泣き暴れている映像は、未だに覚えている程衝撃を受けました。
当時の教団では警察=悪という認識に近かったので、このような映像を見せられたのは教団へのバッシングがいかに不当なものであるかを教えるためだったと思います。

祖母が望んでいた母の再起。子どものことは後回し

もう一つ、祖母から教えられていたのは、母とも教団とも離れ、姉妹で児童養護施設へ行くと言う道でした。
祖母は母に、教団から離れて立ち直って欲かったのです。その為に一度私たちと母を引き離し、その間に母は離婚。
先に借金を返して1人で生活を立て直す(母には祖母から奪ったお金以外に、消費者金融からの借金もありました)。
それが祖母の思いつくベストプランだったようです。

結局ここにも私たちと母が一緒にいる未来はありませんでした。
祖父母は子どもを育てながら母が再帰を図ることは難しいと考えたのです。だからといって仕事もしている70代の自分達が姉妹を引き取り育てることは難しいし、父親も頼りにはならない。
児童養護施設で暮らすのが母にとっても私たちにとってもベストだ、という考えだったのでしょうが、祖母から繰り返し聞かされる「施設に行くことになるかもしれない。」という話も立派に私たちの恐怖心を煽るものでした。

結局母と引き離されずに済んだ子ども時代

出家や施設へ行く話が出ていたのは私たちが小学校低学年ごろまでの数年間でした。

母には私たちを置いて自分一人で出家する、という道もあったと思います。
恐らく祖父母も私たちを連れていかなければ母を無理矢理連れ戻すことはしなかったでしょう。

なぜ母がこの道を取らなかったのかは今でも分かりませんが、結果的に母と私たちが離れることはありませんでした。
その後の教団の弱体化により出家という道は閉ざされ、世間的に教団へのバッシングが収まることで祖父母も母が教団を続けることに目を瞑る様になりました。

そうして母と私たち姉妹と教団との関係はその後も続いていくことになったのです。

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