教団施設の印象は怖いところ、でした。〜信仰の傍ら育ち!母と教団とその他な私たち〜

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いまだに覚えている昔の教団施設での記憶たち

母の入信後、少しずつ教団施設に通うことが増えた私たち。
子どもの頃の教団の印象はひたすら怖い場所、ということでした。
幼かったためかそこでいつも何をしていたのかという記憶はあまりなく…。断片的に印象深かったシーンだけを覚えている程度です。

教団施設は何度か移転しているので、1番古い施設で覚えていることを書いていきたいと思います。

教団特有のルールで好奇心旺盛な子ども時代はよく怒られていた

教団施設は古いビルの一角でした。
繁華街にあるその施設の内部はいくつかの小部屋に別れていました。
入ったらダメな部屋も触ってはいけない物もいっぱいありましたが、入信したばかりでまだ幼かった私たちには区別がつきません。座る時に足やお尻を向けてはいけない場所や、出家した一定の階級の人しか触ってはいけないものなど、教団独特のルールもたくさんあります。
知らずに部屋に入ったり、教団のものに触ったりすると容赦なく周りの大人たちから怒られました。

「入っちゃだめ!」「触っちゃだめ!」と知らない人からだめだめ怒られることが密かに恐怖でした。

意図的に親と引き離される子どもたち

同じ年頃の子どもも何人かいました。
この頃の教団は入信してもすぐに辞める人も多く、子ども同士名前を覚える前に来なくなってしまうことも多々ありました。
教団のイベントは定期的に行われていましたが、その際は親とは離され子どもだけ別室で過ごすこともありました。子どもと親が離れられないのは悪い事だという考え方があり、意図的に引き離されることも多かったです。

引き離された小さい子どもはみんな泣いていました。しかし、“子どもは親と引き離すと初めは泣くが、その後放っておくと諦めて大人しくなる“という考え方が教団内にあったため、教団内の他の大人からも放置されていました。
まだまだ幼かった私たちはお母さんと離されることがすごく怖く、自分より幼い妹が寂しくて泣いているのを見るのも悲しかったです。

印象的だったのが、当時教団内で私がよく怒られていた女性の出家者から、「この前○○ちゃんがお母さんと離れられなくてずっと泣いているから、あそこの部屋に1時間閉じ込められてたよ。」と聞かされたことでした。
この○○ちゃんについてはよく覚えていないのですが、私より年下の女の子だったのは覚えています。
未だにこの会話を覚えているのは、自分も閉じ込められたらどうしようという恐怖があったからだと思います。

*後日、この閉じ込められていた女の子のことを妹ぐりに話したところ、この○○ちゃんはぐりのことであったことが判明しました。本人も閉じ込められた時の記憶はないですが、“母に甘え過ぎている“、と真っ暗な部屋に閉じ込められたことがあったと、大人になってから母や周りの大人に言われたそうです。
恐らく閉じ込められた日も姉妹一緒にいたはずなのですが記憶にありません。子ども頃の記憶なので少しずつ相違がでています…。

教団では大人もよく泣いていた。母が泣いている恐怖。

施設内では子供はもちろん、泣いている大人もよく見かけました。
修行が辛くて泣いていたり別の要因だったり…。詳しい事情は分かりませんでしたが、泣くのは悪いことでないと教えられていたため、大人同士はあまり気にしていなかったようでした。

辛くて泣いている大人に応援してあげて、と言われ、その人の周りで「がんばれ!」と声をかけさせられることもありました。
母も修行中によく泣いていることがありました。その時もお母さん頑張ってって応援してあげて、と言われ、声をかけた記憶があります。子どもにとって自分より強い存在であるお母さんが泣いているのはとても怖い事です。未だに母の泣いていた姿を覚えています。

嫌でも母についていくしかなかった幼少期

幼い頃は教団に対してひたすら怖いという記憶しかないです。行きたくない場所だと思っていたことも覚えています。
しかし父親が全く育児に参加しておらず、ほとんど家に帰ってこない状態の我が家では、母に着いて教団に行く選択の肢以外はありませんでした。

平日の日中は幼稚園、土日と平日の夜はたまに教団、という生活になっていきました。夜に教団施設に行くようになってからは、次の日の朝は起きられず、昼近くに起きる夜型生活でした。土日に母と姉妹で遊びに出かけた記憶もありません。

初めのうちはそこまで宗教にのめり込んでいなかった母。日常生活を送るついでに教団に行く程度でした。しかし段々と教団施設で過ごす時間が増え、日常生活が宗教メインとなっていくのです。

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